必死になる場所はあるのか?
2019/05/18 - BLOG
SLCの矢田真生子です。
先日、夜のニュース番組を見ていたところ、
小さい頃から英語だけで接してくれる保育園に通ったり、
小学生もアプリを活用しながら英語に触れる塾があったり、
という、最近の英語教育についてのレポートがありました。
その後の会話が面白かった。
コメンテーターの方が、
「必死になる場所はあるのか?」というパネルを出した時、
さっきの小さい頃から自然に英語に触れるシーンと、
「必死になる場所」とのコントラストに、ずっこけてしまいました。
さっきのシーンと関係ないやん!
小さい頃から自然に英語に触れるってトピックじゃないのか?
でも、コメンテーターの方のおっしゃる通りだと思います。
その方は、留学して、英語で講義をしなければならない境遇になり、
必死になり、英語を習得できた、とおっしゃっていました。
そして、他のアジアの国々では、英語話者が日本よりも多いのは、
「必死になっているから」だと、おっしゃっていました。
確かに。
幼児の段階で、月額何十万もかけるよりも、
「必死になる」経験こそが、
問題を解決し、人生を前に進めることに繋がると思います。
私が思うに、結局要は「マズローの5段階欲求」だと思うのです。
韓国にいた時、「生きるために英語を勉強する」という場面をよく見ました。
インド人も、「生きるために小学校で必死になった」と言っていました。
「食いたい欲求」「生存したい欲求」のために必死に勉強する国と、
日本のような「自己実現の欲求」で勉強し始める国とでは、
そりゃあ英語話者の数は桁違いに違ってきます。
「自己実現の欲求」までいかない人間が多いですから。
大体が、「社会的欲求」でしたっけ?
人と繋がりたい、認められたいという欲求あたりで、
止まっているように感じます。
食いたいだけ、生存したいだけでいいなら、
必死にならなくてもOKという環境は、平和で良いんですが、
だからって、それでOKというのが人間なのか?
それでも、「自己実現の欲求」のために勉強するほうが、
「生存できればいい」「寂しくなければいい」という人生よりも、面白いと思います。
SLC
矢田